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2026年7月27日月曜日

父のこと。

7/22父・高山才亮が他界しました。享年89歳、眠るように静かに息を引き取りました。先月入所する特別養護老人ホーム所内のお買い物会に行った時も歩行器を使って隣の建物まで移動するだけで疲れてしまい、お買い物会場を目の前にして部屋に戻ったので体力が落ちているのは感じていました。とは言え「やっぱり、女どもは(本人の言葉まま)いくつになっても買い物好きだなー」といつもの軽口を叩いていたので、まだまだ安心も。

2週間前にバイタルが落ちてきているので緊急時どうするか?「救急搬送するか」「延命措置をどこまでするか」の看取り介護の確認の更新(毎年、家族の意向を確認してくれる)を早めに行おうと連絡がありました。

人工呼吸器をつけるか、延命措置をどこまで行うか…こうした判断をするのは毎度のことながら、命の重みに向き合うのが辛くて…。弟に連絡をとり、一緒に行く約束を取り付けていましたが、先週土曜日「なるべく早く来て欲しい」と再度連絡。急遽翌日曜日に弟と会いに行ったところ、すでに車椅子になっていたものの、食堂で過ごしていました。ただ日曜日なので担当ケアマネジャーさんがいらっしゃらず同意書のサインに至らず。22日(水)夕方に夏休み中の三女&四女を連れて会いに行き、同意書もサインしました。それでも孫たちに「何歳になった?」と聞き、会話も成立。

帰宅2時間後の19時半に施設から電話「容態急変したのですが、救急車どうされますか?」って「え??さっきの同意書の確認練習??」かと思ったら、会って夕食食べた後に呼吸がちょっと荒れて、そのままバイタルが急激に下がったと。急いで駆け付けたのですが意識はなくお医者さんの到着前に息を引き取りました。息子(弟)にも孫にも会って、最期をどこで迎えたいかも取り決めたタイミングまで待ってたようです。母の時は急すぎて心が追いつきませんでしたが、父とは言葉も交わせてよかった。

そしていつも見てくださる介護士さん、看護師さん、そして勤務時間外のケアマネさんと施設長に至っては自宅から駆け付けて見送ってくれました。施設に入れる葛藤はたくさんあったけれど、たくさんの人に見送られてよかったです。母の急逝後、老人性うつと診断され認知症が一気に進み、6年半の間に私の手術&治療も重なり自宅での通い介護、老人病院、リハビリ病院、老健、ショートステイ、グループホーム、特別養護老人ホームと転々としたけれど、こんな風にたくさんの人に見守られてよかった。亡くなった後も遺体を早く(夏なので特に)移動しなくてはならないので、葬儀社を探し、火葬場を予約し、遺体を安置し…と帰宅は1時過ぎ、もろもろ手配をして25日に見送りました。

介護は大変そう、辛そうなイメージしか持っていなかったのだけれど、母との急なお別れもあったので、一緒に過ごせる時間をたくさん持てたのはむしろ幸せでした。入所する時の気持ちは、保育園に子どもを入園させる時と全く同じ。入るまでは不安だらけなのに、入ったら介護士さん達のプロフェッショナルな介護に学び、委ね、介護する側もされる側も一人じゃない安心感。

すっかり一回り小さくなって、しかも穏やかな好々爺になった父のことばかり書いてもアレなんで、元気なころの父のことを。古紙再生業を営んでいた父。自身の弟や母の親戚が上京した際は働かせて面倒を見て、日曜日は毎週営業と称したゴルフに麻雀。子どもらが起きている時間には帰ってこず「また遊びに来てね」と小さなころの私が送り出していたとか…でも写真を見るとしっかりかまってもらっていたなー。

学生時代は私が連れてくる友達、飲み仲間を歓迎(!?)して日付変わるまで飲み明かし、数時間後には雑魚寝する私たちの合い間を縫って、ゴルフへ!石垣島の友人たちを連れてスキーに行ったり、東京の父として?石垣島まで結婚式の参列に。「内気で無口で照れ屋」(嘘)「人間大好き人間」が口癖で、私の夫も本当の息子のようにゴルフやら何やら連れまわしてかわいがってくれました。4人兄弟の3番目ながら、両親からの愛情に欠けた思いをもたず、思春期に「お父さんイヤッ!」となることもなく、ずっとお父さんの娘で幸せでした!











毎年父の誕生日には私の友人たちからパジャマをプレゼント。この派手派手パジャマも!






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